ぶんげいマスターピース工房 VOL.1

ベルトルト・ブレヒト/作  『コーカサスの白墨の輪』劇評

<ぶんげいマスターピース工房>第一回公演

『コーカサスの白墨の輪』 ベルトルト・ブレヒト・作 菊川徳之助・演出

                         評者・岡本  卓也

選べる状況にあるうちに、選べる権利のあるうちに、選ばなければ、もう二度と選ぶことはできなくなるのではないだろうか。戦後レジームからの脱却とは戦後民主主義の解体ではないのか。この体制への懸念を、すでに昨年の九月に予見していたような舞台があった。

 <ぶんげいマスターピース工房>第一回公演、ブレヒト作、菊川徳之助演出の『コーカサスの白墨の輪』である。現在の日本は、アメリカ型グローバリズムが導入され、格差を作り出す社会体制への移行が押し進められている。ブレヒトの存在さえ忘れられているのではないかと思われるのだが、演出者菊川は独自の視点から、自身が創作したプロローグとエピローグを付け加え、脚本の再構成と演出によって、現在を鮮烈に照射する世界を作り出した。

菊川の演出は 衣裳・舞台美術・音楽すべてが構造的に絡み合い、菊川の主張を浮き彫りにするものであった。

 プロローグは出演者全員が、裸舞台に横一列に並び口上を述べる。基本の衣裳は簡素で、ベージュで統一されたチノパンやフリースである。口上の後、第一場の出演者だけが舞台に残り、その場で基本の衣裳の上に役柄を象徴する衣裳をつける。現在のありふれた若者達、いわゆる、この失われた十年の間に作り出された富裕層ではない若者達が、自分達の思いを述べる手段に『コーカサスの白墨の輪』を上演する構造をとっているのだ。彼らの口上には演出家の時代認識が明確に示されている。

 彼らは、今の時代を「親が子を殺し、子が親を殺す」「平和なようで戦争の危険を感じる」「混乱の時代」だと言う。そして観客にそんな時代だからこそ、「繰り返される異常は異常でなくなる」のだから「舞台で行なわれることを」「当たり前のことも当たり前でないように」、「一見簡単に見える小さな行動さえも不審の目で見、それが必要かどうかを考えてほしい」と訴える。小泉政権下の五年間に改革の美名のもとに、経済格差が作り出され、人心はすさみ、凶悪犯罪は日常茶飯事になり、これらは既に見慣れた風景にさえなっている。それに対し、いささか単純に理想主義的な母性を主張する寓意劇である『コーカサスの白墨の輪』から、演出者菊川は何を照射しようとしたのか。

舞台の進行は、音楽によってなされる。音楽は、舞台下手の張り出しで生演奏される。歌手が場面の展開を先導したり、登場人物の内面を代弁する。歌手を演じた近藤明子が歌詞を改訂し、原詞の内容を損なわずに、メロディに巧く乗せている。観客には、内容を耳から理解しやすくなっており、今回の成功の一因となった。

 菊川の演出の真骨頂は、空間の変容を瞬時に起こすことにあるが、今回の舞台ではその実力がいかんなく発揮されていた。

第一幕の転換は、すべて吊り物でなされ、スピーディーに展開し、事の成り行きの切迫感をもたらした。一枚の布が降ろされ、照明が変わるだけで、全く違う世界が次々と作り出されていくのは圧巻であった。主人公(宮殿の賄い女)グルシェ(演者・しょーじ)の逃避行に合わせて、演技空間が舞台の上手、下手、中央、或いは全体と振られ、過酷な逃避行の時間と距離が実態として浮かび上がってきた。特にグルシェが農家に子供を捨てる場面で、一枚の布のこちら側が屋外になっているのだが、いったん引き上げられた後、グルシェが胸甲騎兵に出会い子供を救うために駆け戻る時には、シンクロするように降ろされ、同じこちら側が農家の屋内になっている。グルシェの迷いと決死の思いの緊迫感を生み出す鮮やかな転換であった。

 最も美しい場面は、グルシェとミヘル(岩下玄基)が川辺で洗濯をする場面であろう。

沈んだブルーの照明の中にやや下手奥から舞台中央に斜めに青くきらめく川が流れている。背景の波模様に繋がり、川は遥か彼方から流れ来るようであった。グルシェとミヘルは横顔を見せながら並んで洗濯をする。グルシェが洗濯物を水ですすぐとミヘルもすすぐ。グルシェが洗濯物を絞るとミヘルも絞る。水の冷たさが観客の身にも染み入るようであった。観客はいやおうなく、二人が過酷な日々の中で、身を寄せ合いながら生きていることに共感させられてしまう。 寓意劇が寓意劇を超えて、血肉を持ったものになった瞬間であったと言えよう。 自分の子供でないミヘルを育てるグルシェの母性を、観念的ものではなく、普遍的な実在として存在させたのである。

 そのことを、更に深めた演出がみられるのが、育ての親のグルシェと産みの親の領主夫人のどちらが母親にふさわしいかを決める場面である。ミヘルの腕を二人の女が引っ張り、自分に引き寄せた方を母親として認めるというものである。有名な大岡裁きでは、実の母が、痛がる子供を見て手を放す。ブレヒトはこれを逆転する。育ての母のグルシェが手を放し、血縁ではなく真の母性を持つ者が子供を育てるべきだと主張する。

 菊川の演出では、引き合う前に、グルシェは離れていたミヘルが身近に戻ったいとおしさに、思わずミヘルの手を両手で包み込む。ミヘルに苦痛を与えることなど考えられないようである。そのため一度目の引き合いは、一瞬のうちに領主夫人の勝利となる。二度目では引き始めて直ぐにミヘルが痛いと叫び、その瞬間グルシェは手を離す。あっけない感じである。おそらく多くの観客は、この場面ではグルシェと領主夫人とがミヘルを自分の方へ力一杯引っ張り、ミヘルの大きな泣き声にグルシェが苦渋の末に手を放し、そこにグルシェを母親と認める裁定が下るような大芝居を期待し、カタルシスを得ようとしているであろう。菊川の演出はこのカタルシスを否定する。これは劇場の中で完結せずに社会に開かれた演劇を目指したブレヒトの演劇理念を継承すると同時に、習慣的な思考で類型的な母性を思い浮べている観客に、真実の母性の深さをぶつけ、その概念を揺さぶるものでもある。

一幕の幕切れも見事であった。胸甲騎兵がグルシェのもとからミヘルを連れ去った後、歌手はミヘルをめぐる二人の母親の裁判が始まる事を歌い、観客に「さあ聞くがよい、裁判官の身の上話を・・・」と告げる。その瞬間、上手からアツダクの座った裁判官の椅子が滑るように押し出されてくる。アツダクの法依の裾は翻り、周囲を睥睨するアツダクは威厳に満ちた口調で言う「これから判決を言い渡す」。客席に緊張感が走った瞬間「十分の休憩」。あまりの鮮やかさに意表を突かれて、一瞬の間の後、観客から盛大な拍手が起こったほどである。

二幕は一幕とは対照的に一杯道具で通される。 抽象的な舞台装置は、戦争で破壊された建物の壁面のようにも、解体中の工事現場のようにも見える。何本も突き出た角材が見る者に突き刺ささり、混乱した社会の人々の荒んだ心象を象徴しているようである。このような装置の前で、もう一人の主人公・土肥順一扮する裁判官のアツダクの物語が演じられる。アツダクが裁判官になるまでのエピソードは、これまでの上演ではカットされることが多かったが、このエピソードを上演することで菊川は、『コーカサスの白墨の輪』を、母性をめぐる寓意劇ではなく、人間存在の多重性と、混乱した状況の中で人が自己の多重性の中から何を選び取って生きるかを、更に革命劇としての一面を、浮かび上がらせた。

逃亡中の大公(菊川徳之助)を、それと知らずに助けたアツダクは、自分が助けた老人が大公だと判ると、自ら、大公の逃亡を助けた罪を胸甲騎兵(藤原大介)に名乗り出て罰を受けようとする。新しい支配者に弾劾される前に自首し、刑を軽くすまそうと計算するずるさと、残虐非道な支配者が生き延びるのに手を貸してしまった後悔を併せ持っている。アツダクは権力の交替による混乱期の無秩序状態に、民衆の支配の可能性を感じ、胸甲騎兵の前で祖父のペルシャ土産の民衆が蜂起した新時代の歌を歌い混乱の時代の民衆の味方であることをアピールするのだが、裁判官を縛り首にした絨毯織り職人達が、胸甲騎兵達に殺されたことを知ると、一転、卑屈になり命乞いをする。それなのに、続く新しい裁判官を決める模擬裁判では、鋭い支配者批判を展開してしまう。演出菊川はすべての場面で、このように一つの行為の中に潜む人間の多重性とその行為を選ばずにはいられない、個々の人物の衝動を浮き彫りにしている。その意図に最も応えたのが、このアツダクを演じた土肥順一であろう。役柄の解釈に優れ、常に巧みな演技をみせる俳優だが、今回のアツダクでは解釈や技巧を超えた厚みのある人物として存在し、舞台の成功の一因となった。

 支配者の権力争いの狭間で裁判官になったアツダクは、飲んだくれで、そのうえ賄賂を要求するが、ただの悪徳裁判官ではない。前述の裁判官を決める模擬裁判の場面にみられる支配者への批判が、アツダクのすべての判決の底に流れている。菊川は裁判の場面を巧みに再編して、このことを際立たせている。強姦事件の裁判の場面では、民衆達が装置の後ろから裁判の成り行きを覗いている。アツダクが貧しい下男(中村光宏)を無罪にし、訴えた側の嫁(濱中香衣)を自分のものにして抱き上げ、他の巡回裁判に出発すると、民衆は拍手をしながら舞台の前に出てきて横一線に並ぶ。拍手は手と膝を打ち鳴らす力強いビートに変わり、彼らは「正義のお奉行アツダク」とアツダクを讃えて歌う。その中に胸甲騎兵が騎馬になり、その上にアツダクが乗って客席の扉から登場し、観客を民衆に見立てて呼び掛ける。劇場全体が、自分達の味方をする裁判官を誉め讃える民衆の歓喜に満ちた祝祭空間に変貌していた。

これらの伏線が、ミヘルの母親を決める裁判のアツダクの選択を必然とし、また観客の共感を呼ぶものにしている。アツダクの「ミヘルを権力者にしたくはないのか」という問いに、グルシェは答えられない。「たとえ飢えても、飢えたる者を恐れる権力者でいるのは、それよりもなお辛い」とグルシェの思いを歌手の近藤が絶妙の音色と染み入るような声量で観客の心に分け入るように歌う。グルシェの目を見つめてアツダクは「お前の言いたいことは分かったと思うぞ」と応える。この瞬間に、アツダクが人として行なうべき選択をしたことを観客は知る。アツダク役の土肥の、精神と肉体の深部から湧き出るようなこの一言が、観客自身にこれまでの、そして今このような存在としてある自分自身の選択が、どのようなものであったかの問いを突き付ける。

 この問いはエピローグで、更にはっきりと示される。登場人物が、次々と舞台装置から角材を引き抜き、舞台の中央でその左右の端を引き合いながら叫ぶ。「美しいか―成り上がりか」「産みの母か―育ての母か」「高くて安全か―安くて危険か」。最後には、全員が一本の角材を挟んで左右に数珠繋がりになり、「右か―左か」「左か―右か」と角材を左右に引っ張り合う。これは単純に右翼か左翼かと言うような問いではない。むき出しの角材が象徴するのは、選ぶ機会さえ奪われて下流に押し込められた人々の、あるいは意図的な情報の洪水に操られて行なった選択を、自己の選択と勘違いさせられている人々の抑圧された心象である。その角材を引き合い、持てる限りのエネルギーのすべてをかけて何かを選び取ろうとする姿は、現在のさまざまな困難を抱えた日本の状況は、観客一人一人の日々の生活の中での選択の、あるいは、何もしなかったという選択の、結果であることを突き付けてくるのである。

 酔っ払いで俗臭ふんぷんたるアツダクでさえ、支配者による秩序が回復され、自分が選択を行なうことができる最後の機会に、人として行なうべき選択をすることができた。さあ、今度はあなたの番だ。困難な状況とはいえ、まだ選べる状況はある、選べる権利はある、何をどう選び取っていくのか。その選択が私たちの社会の行く末を決めるのだ。菊川の問い掛けを胸に、私たちは劇場を出ることになる。まさにブレヒトがめざした開かれた社会に向って。

<ぶんげいマスターピース工房>の第一回公演は、<名作工房>に相応しい名作を現代に蘇らせて見せてくれた。次回のチエーホフ特集への橋渡しに光が見える。

    〜ブレヒト没後50年に寄せて〜

        
コーカサスの白墨の輪

   作:ベルトルト・ブレヒト       翻訳:岩淵達治        演出:菊川徳之助



   スタッフ
     キャスト (五十音順)
作    ベルトルト・ブレヒト 安部達雄 太った侯爵
西村孝子 料理女・別の女
翻 訳 岩淵達治 石毛孝尚 医者2・ある男ほか
西村祐沙 若い侍女・結婚式客J
演 出 菊川徳之助 井出 亮  グルシェの兄・年とった百姓
濱中香衣 侍女スリカ・ある女ほか
演出補 山口吉右衛門
今西哲也 侯爵の甥・ひとりの農夫
広田ゆうみ 領主夫人
    パウル・デッサウ 岡田尚丈 領主・修道僧ほか 藤原大介 胸甲騎兵1
音楽・歌 近藤明子
加藤美和子 楽士 二口大学 副官・ユスプ
舞台美術 近藤知也 菊川徳之助 大公
堀 貴雄  馬丁・警官シャウワ
衣 装 木内小織・岡博美 岸村英子 侍女マーシャ・兄嫁アニコ他 松下由紀子 農婦
舞台監督 文化芸術会館 近藤明子 歌手
松田 潤  建築士一・農夫ほか
音 響 文化芸術会館

佐野竜介 伝令・上等兵

みどり   侍女マロー・女
照 明 文化芸術会館
しょーじ   グルシェ
柳原良平 医者一・甲騎兵ほか
宣伝美術 ナカタプラン 土肥順一 アツダク・料理人
柳瀬久美子 楽士
プログラム・ディレクター  戸塚侃子 侍女ニーナ・姑 柳瀬仁志 楽士
     椋平 淳 中田達幸 シモン

山田夕子 楽士

中西一志 胸甲騎兵2
中村光弘 建築士二・下男ほか ほか一般公募の方々

 06年23日(祝) 午後5:00開演     
    
24日(日) 午後2:00開演
                
◎開場は各30分前
 特別企画
 「翻訳者と演出家によるストレート・トーク」
  日時:9月23日(土)終演後、文芸会館ホール
  ゲスト:岩淵達治
(演出家・ドイツ演劇・学習院大学名誉教授)
       
菊川徳之助(演出家・近畿大学教授)
 料金 
  一般=前売り 2500円
       当 日 3000円
  学生=1500円均一

 チケット取扱
  ◎文化芸術会館窓口
  ◎チケットピア
  ◎ローソンチケット
  ◎各大学生協